教授が語る大人の音楽

椎名林檎論(2)

椎名林檎/Ringo Expo 08
この目は、言うまでもなく椎名林檎。彼女のDVD作品「RINGO EXPO 08」のジャケットである。

前回は、ロッカー、アーティストとしての林檎を語ったが、今回は、パフォーマー/エンターテナー(芸人)としての彼女の魅力を書いてみたい。

椎名林檎は、高い芸術性をもった歌詞を書くアーティストであると同時に、希有な芸人でもある。ここでいう芸人の芸とは、聴衆に対して、恥ずかしいという気持ちを起こさせることなく、自分の世界に引きずり込む力のことである。

上記DVDを観ていて思い出したのは、山口百恵のラストコンサートである。あの美空ひばりを思い起こさせる堂々としたたたずまい、威厳といってもいい。山口百恵は、最後の曲のあと、舞台の真ん中にマイクをそっと置いて去っていくのだが、全然「クサく」ないのだ。そこには、ある種のふてぶてしさ、よく言えば巫女的な力を感じた。

だいたい、椎名林檎以外の誰がいきなり鹿の角の生えたかぶり物をして(千都クンかい?)、堂々と歌うことができるというんだ?

たぶん、今の歌手でそのような力を備えているのは、日本では中島みゆき(あの「夜会」のパフォーマンス!)、海外ではマドンナくらいだと思う。

どんなに優れた歌手でも、舞台に上がると、ちょっとした「気恥ずかしさ」「照れ」がどこかに出てしまう。その典型が高橋真梨子。大好きな歌手だが、コンサートでの彼女は、大物歌手であるにもかかわらず、こっちがいたたまれなくなるほど、おどおどした雰囲気、立ち振る舞いである。

椎名林檎のデビューライブの映像も持っているが、そのときには、正直「舞台慣れしてないなぁ」といった感じだった。その時点で発表いしていたPVでは、昭和レトロ風の「歌舞伎町の女王」、看護婦さんに扮した「本能」、眉毛をそった「罪と罰」など、見事なパフォーマーぶりだったのだが、やっぱり作り込まれた作品に過ぎず、ここが限界かと思った。

しかし、それが杞憂だったと実感したのが、このDVDである。それくらい、圧倒的なパフォーマンスの連続。

舞台上で、堂々と歌いきるには、自分を徹底して演じることができなければならない。素の自分と演じている自分が行ったり来たりするのでは、聴衆が落ち着かない。椎名林檎は、アルバム3枚で椎名林檎を廃名すると宣言していた。逆にいえば、それまでは椎名林檎を演じているということである。

それは、デヴィッド・ボウイが、コンサートにおいて、地球にやってきた宇宙人ジギー・スターダストを演じ、最後に舞台上で彼を葬り去ったのと事情が似ている。デーモン小暮やゆーこりんも同じかなぁ?

この距離の置き方で、彼女は、人格崩壊を起こすことなく、最高のパフォーマンスを演じることができる。このスキルは、スター稼業を続けているうえで、とても重要である。ロック・スターの中には、ファンの期待と自分のやりたいこととの間のギャップに苦しめられ、麻薬に走ったり、自殺に至ったりするケースが多いのだ。

芸人とアーティストの間に、椎名林檎の生きる場所がある。

(つづく)

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椎名林檎論(1)

椎名林檎「無罪モラトリアム」
これは、私の愛する椎名林檎のデビューアルバム「無罪モラトリアム」。このファーストアルバムに衝撃を受けて以来、私は、なぜかずっと保護者のような気分で彼女を見守り続けている。

今回から何回かに分けて、椎名林檎のどこがスゴイと思うのかを綴っていきたいと思う。

今日のテーマは、かくもこんなにわれわれおじさん世代のロック好きを惹きつけるのか。

私の周りの研究者仲間にも椎名林檎のファンは多い。椎名林檎にたどりつくルートは、大きく2つあるのではないかと思う。

ひとつは、中島みゆきルート。私もそうだが、中島みゆきのファン出身者が意外と多い。いずれ詳しく書いてみたいと思っているが、中島みゆきの詞の世界と椎名林檎の詞の世界には、共通点がたくさん見られる。自分のことを「あたし」というところとか。

もうひとつのルートが、ロックルートである。70年代にロックの洗礼を浴び、以来ロックをたっぷりと聴いてきた人たちが、椎名林檎に籠絡されている。

理由は……簡単である。

私たちがライブに足を運び、熱狂していた若い頃には、彼女のような素敵な女性ロッカーがいなかったからである。

海外のアーティストで、女性ロッカーといえば、ジャニス・ジョップリンかパティ・スミス。両方とも、歌唱力は、すばらしく、魅力的な曲・演奏はたくさんあるが、とてもアイドルとして崇められる存在ではない。申しわけないが、前者は豚顔、後者は馬面である。

高校時代の私のアイドルは、ウェストコーストの歌手で(ロックというよりカントリーに近い)、かのイーグルスがバックバンドを務めていたリンダ・ロンシュタットくらい。ちなみに、彼女は、タヌキ顔。

日本でも、レベッカのノッコやジュディ・マリのYUKIが出てくるまで、女性ロッカーとして純粋に崇拝するに値する人材は、全くいなかった。

どうしていたかというと、多くは、硬派にロックを聴きながら、同時並行的に、好きなアイドルを見つけてこっそり聴いていた。私ならば、キャンディーズ、松田聖子、小泉今日子といった感じ(ああ、恥ずかしい)。

しかし、彼女たちのレコードを聴いても、「ロック」を感じることができない。ロックには、それなりの「語法」があり、アイドルの曲は、それとは別の次元で制作されているのである。ロックというフィールドの中で、ロッカーとして応援できる女性アーティストは、存在しなかった。

という中で、現れたのが椎名林檎。そこで演奏される曲やサウンドは、完全にロックの語法にのっとったもの。曲のアレンジは、結構ハードだったりするけど、女性っぽさも感じられる。何よりも、2ちゃんねるで専用コーナーがあるほど、「何か話したくなる」要素をもち、他方で、ヒットチャートを賑わすほどのカリスマ性と大衆性を持つ。日本に突如出現した最大のロック・アイコンだと思う。

ということで、「無罪モラトリアム」の1曲目、あの分厚い、グランジロックを通過した轟音サウンドに導かれて、「正しい街」が流れたときに、おじさんロックファンは、「そうそう、こういうのを長い間待っていたんだよね」と手をたたいたのである。

(つづく)

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ヘルベルト・フォン・カラヤン「アダージョ・カラヤン・ベスト」

ヘルベルト・カラヤン/アダージョ・カラヤン
ジャケットに写る品の良さそうな老人は、帝王カラヤンである。伝説の大指揮者フルトヴェングラーの跡をついでベルリンフィルの音楽監督に君臨した泣く子も黙る指揮者である。

私のようなクラシックのプチマニアにとって、生前のカラヤンは、敵であり、嘲笑の的でもあった。ほとんどのクラシックマニアは、カラヤンを否定してきた。

なぜだろう? 理由は簡単。どの音楽も、ゴージャスで、スピーディで、なめらかに流れるが、そこからは、何の発見もないからである。

カラヤンは、有名な曲、すでに評価の定まったしか演奏しなかった。演奏を聴いても、曲の中に新たな魅力を発見することはないし、曲の解釈について「そういうとらえ方もあったのか!」と膝を打つこともない。いつも表面的だった。

楽団も、ベルリンフィルやウィーンフィルなど、一流のオーケストラしか相手にしなかった。超一流の演奏家をそろえて、その力を引き出すことはできても、二流のオケから信じられないほどの演奏を引き出したり、徹底的に鍛え上げることで、一流のオケに仕立て上げることもなかった。

目を閉じたままタクトを振る姿は、ナルシズムの極致だったし、スポーツカーや小型ジェット機を乗り回し、ビジネスマンのような雰囲気は、芸術家に憧れて音楽を聴くマニア達からは反発を買うだけだった。奥さんが超美人だったのもマイナスだったかもしれない。ナチとの関係も取りざたされ、権力亡者・お金の亡者と言われてきた。

自分たちの演奏をレコードに刻み、ビジネスとして世界中に売りまくったおかげで、クラシックは大衆のものとなったと評価する人もいるが、クラシックのCDの売上げをみれば、カラヤンの貢献などは、ほんのあだ花だったことがわかるというものだ。

私は、気に入った演奏をI−TUNESに随時入れているが、先日、思いのほかたくさんのカラヤンの演奏をi−podに入れて持ち歩いているいることに気がついて驚いた。その一つが、カラヤンの死後に発売されて大ヒットしたアダージョシリーズのベストである。

このアルバムは、オーケストラの小曲や特定の楽章で、アダージョ、つまり緩やかな曲だけをコンパイルしたものである。いくつもシリーズが出ているが、私が気に入っているのは、マーラーの交響曲第5番のアダージョから始まり、アルビノーニのアダージョで終わるアルバムである。

音の緩やかな波に身をゆだねると、本当に心地よい至福の気分になれる。このアルバム以外でも、シェーンベルクやウェーベルンなどの新ウィーン学派集(これは1回しか録音しなかった)、シベリウスの4番から7番まで、ウィーンフィルとの惑星などがお気に入りである。

そこで気付いたのは、カラヤンの演奏は、部屋の中で集中して、ヘッドホンなどで聴くには値しない、というか正直時間がもったいないが、仕事をしながら、あるいは出張中の新幹線の中で聴くのに最適だということである。音に力があり、ニュアンスに頼らない演奏。カラヤンは、新しいメディアが出現するたびにベートーベンやブラームスの交響曲、チャイコフスキーの「悲愴」などを繰り返し録音し直したメディアオタクだったが、はからずも、彼の死後出現したi−podというメディアが、彼の音楽の素晴らしさを再発見する機会をくれたのである。

音楽評論家の許光俊は、カラヤンの音楽を高級ホテルのレストランのディナーにたとえた。材料は、すべて高級品。料理は、オーソドックスで手堅い。絶対に失敗はないが、そこに感動はない。

しかし、現役指揮者のふがいない姿を見るにつけ、カラヤンの独裁者ぶり、エゴイストぶりが懐かしくなる。少なくとも、カラヤンは、自分が創造したい音楽を(それが薄っぺらなものであっても)、自分の思うようにリアリゼした。そんな音楽家は、もうほとんど死滅してしまっているのである。

私は、このアルバムに入っているマスカーニの「カバレリア・ルスティカーナ」というオペラの間奏曲を偏愛している。ゴッドファーザーにも使われた美しいメロディの曲である。私の葬式には、ぜひこの曲を流してほしいと思う。もちろん、カラヤンの思い入れたっぷりの薄っぺらな演奏で。

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マイケル・ジャクソン「アルティメイト・コレクション」

マイケル・ジャクソン/アルティメイト・コレクション
追悼、マイケル・ジャクソン。この4枚組CDセット(DVD1枚付き)には、マイケルのすべてがパッケージされていると言っても過言ではない。

「キング・オブ・ポップ」などと、亡くなってから急にもてはやされているが、彼の凄さは、同じ時代を生きた人間にしか絶対にわからないと思う。若くして訪れた晩年の「あの顔」しか知らない若い人には、なぜ彼の死がなぜこんなに多くの人の心に突き刺さるのかは、理解不能だろう。

かく言う私も、マイケルの熱心なファンとは言えない。小林克也のベストヒットUSAで初めて彼のPV「スリラー」を観たときには、そのストーリー仕立ての映像に驚いた記憶があるが、アルバムとしては、「スリラー」しか所有しておらず、あとは、このCDセットをたまに聴いていた程度である。

彼のどこが偉大なのか? 一番わかりやすいのは、ダンスか?

マイケルといえばムーンウォークだが、それよりも凄いのは、ダンスのキメ。パシッと決まるときのスタイル。あれは、マイケルがほとんど発明したものである。ジャニーズや韓国のRAINの踊りは、いってみれば、そういったキメの連続である。そのスタイルのほとんどをマイケル(とその振付師)が作ったものだといえば、その影響の大きさがわかるだろう。

ヒップホップダンスが出てくるまでは、振付の基本は、マイケルの踊りにあったわけで、日本のアイドル歌手の振付師は、マイケルのPVをネタ元にしていたのは明らかである。これを作曲の世界でやれば、著作権法違反になるのだろうが。

次に、サウンド。このサウンドの多くは、全盛期にプロデュースしたクインシー・ジョーンズによるものであるが、これが今の耳で聞いても凄い。つまり、バックのサウンドだけ聴いていても、全然飽きないほどのクオリティを持っている。

クインシーは、ジャズ畑の人で、その人脈を生かして、フュージョン系の一流プレーヤーを贅沢に利用した。サックスやギターのほんの20秒のソロに、彼らは命をかけている。その集中度の集積がマイケルのアルバムを特別のものにしている。

彼のボーカルも、サウンドとしてい機能している。もちろん、歌詞があり、メッセージがあるわけだが、その言葉さえも、全体のサウンドの中に溶け込んでいる。つまり、"Beat It"という言葉は、「ぶったたけ!」という意味をなしているというよりも、それ自体サウンドとして、空気を叩いている。

マイケルは、白人になりたかったのだろうか? これも今の価値観ではわからない。昔の彼の映像を見て、私の70歳を超える母は「カッコいい」と言っていた。その姿は精悍で、さわやかである。しかし、本人の自己イメージは違っていたのかもしれない。

多くの黒人映画スターが現れ、黒人の大統領オバマが登場し、無理やり「Black Is Beautiful」と叫ばなくても良くなった。単純に、日本人の目からみても、カッコいい黒人がテレビやスクリーンに映る。これは、おそらくギリシャ以来綿々と続いてきたヨーロッパ的な美感が大きく転換したことを意味する。

だから、鼻を不自然なくらいとがらせたり、顎をとがらせたり、皮膚を白くしたりしなくても、十分美しい。残念なことに、おそらく100人に聞けば、99人は、昔のマイケルの方が美しいと答えるだろう。この現実が悲しい。

私は、彼の死を新幹線の中に流れる電光掲示板のニュースで知った。IーPODからこのアルバムを探した。ジャクソン5時代の”I'll Be There"が流れた。そこには、体全体を使って、ひとつひとつのメロディを慈しむように歌う子供のマイケルの姿があった。こんなに清らかな歌を歌う少年がその後歩むことになる波乱万丈の一生に思いをはせた。

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